第一次世界大戦 勃発 により 多く の男性が 兵隊に とられ た 結果、 欧米 では 女性の 社会進出 が促され たが、関東大震災 から復興した 東京 に象徴的 な 近代化、 工業化、 都市化 が 進む 大正時代は、 日本 の女性 も職場 や社会 へようやく 進出 し始めた 時期であった。 帝大 を 卒業する 女子学生 が出現 し、1918(大正7) 年 には東京女子大学 が創設 されている。
大正 を 迎える 直前の 1911(明治 44)年 9月、 平塚らいてう 等 が発刊した 婦人 解放 運動 の雑誌 『青鞜 』は、「 元始、 女性 は実に 太陽 であった 真正 の人 であった。 いま 女性 は 月 である。 他に 依って 生き、 他の 光 によって 輝く、 病人の ような 蒼白い 顔 の月 である。---- 私ども は隠され たる 我が 太陽 を 今 取戻さ なければ ならぬ 」と 宣言 。翌年、 平塚らいてう は『 中央公論 』に「 新しい 女 」という 一文 を 発表した 。「新しい 女 」が 大正時代 の女性 を象徴する ひとつの言葉 とすれば、 社会 へ出 た女性の 具体的な 姿を表す のは、 大正 末期 頃 から言われる ようになった 「 職業婦人 」と「 モダンガール 」という 言葉 ではないだろうか。
女性
が
従来の
農業
や
家族
ぐるみ
の労働
以外
に、
大正時代
に
どのような
職業
に就いて
いたか、1912(
大正
元年
)11
月
の『
内外
新聞
』に20種
以上の
「婦人
の職業
」が
挙げら
れている。
それ
によると
医師、
看護婦、
薬剤師、
産婆、
教育家(
教師
)、音楽家
、(新聞記者
)、写真師
や、電話交換手
、タイピスト
、専売局
女工
、手芸
、洋裁
・ミシン
裁縫
など。
大正
中期
以降
はこれに
広く
女工
、事務員
、外交員
、美容師
、婦人
雑誌
創刊
に伴う
雑誌記者
、放送員
、バスガール
、デパート
店員
、女給
などが
新たに
加わ
り、
映画
女優
という
仕事
や
女性
アナウンサー
も
登場した
職業婦人
の
権利
、地位
向上
へ向けて
、バスガール(
女子
車掌
)の
東京
婦人
労働組合
や、
職業婦人
団体
連盟
ができたのも
大正時代
後期
であった。
次に
モダンガール
(
モガ
)は、
銀座
をはじめ
都会
の
メインストリート
に
登場する
、従来
の
枠
に
はまらない
モダンな
スタイル
の女性
を指して
いた。
モダンガール
の
絶対
条件
は、
洋装
である
以上
に
毛断
(=
モダン
)、
断髪
であった。
明治
に
続き
、長
から
短
へ、
髪型
の
変化
こそ
が
女性の
ファッション
の
先を行った
。
大正時代
(から
昭和
初期
)を
代表する
洋風の
髪型
ファッション
は「
耳隠し」と
呼ばれ
る。
熱く
した
鉄製の
コテ
でウエーブ
をつけて
ふわりと
柔らか
く
見せ
、後ろ
の
髪
は
束ねて
、
髪
で
耳
を
隠して
いる
ため、
その名
が
付いた。
この 髪型 「耳隠し 」の 普及 に寄与した のが、1922( 大正 11年) に資生堂 が 美容 文化 活動 の 一環 として 化粧品 部 ビル 2 階 を改装 し、 美容 科 、子供服 科 と ともに 開業した 美髪 科 (後の 資生堂 美容室 である。 美髪 科 主任 には 米国 から 美容師 ヘレン ・グロスマン を 招請。 日本 になかった かぶと型 ドライヤー を設置して 、洗髪 ・束髪 ・縮髪 など 欧米の 最新 ヘアスタイル から 美顔 (フェーシャル)術、 美爪 (マニキュア )・ 美眉 術 まで、モダンな 美容 法 を直接 伝授する 場 となった。
大正
末期から昭和
初期
にかけて
話題
を呼ぶ
モダンガール
だが、大正
末期
銀座
を歩く
人
を観察した
結果
(『資生堂
月報
』大正16年
1月
号
他
)によれば
、和装
で断髪して
いない女性
が圧倒的多数
だったように
、世間
では
ごく
少数派
だった。
しかし
時代の
先端
をいくファッション
や行動力
は
次の
時代
へ引き継がれ
、一般化
してゆくのである。